歴史の旅レポート 出雲・奈良、神話を巡る旅 PART1〜出雲と奈良の神社・史跡を巡るドライブ〜 訪問日:2009年12月中旬〜 掲載日:2009年12月23日 |
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プロローグ1 出雲の国譲り神話について | ||
今回は出雲と大和で、神話と歴史を辿る旅をしてきました。 古事記や日本書紀で語られる日本神話上重要な位置を占める話として、国造りと国譲りの話があります。神話はあくまで神話であって、正しい事がかかれている訳ではありませんが、何らかの史実を反映して生まれた話だと考えられます。旅の前提として、まずはその二つの話を調べてみましたので、チョットだけ紹介してみたいと思います。 (真実が判らないことだけに、私の妄想が入ってますのでご了承ください。また凄まじく簡略化しているので、元々ご存知の方はスルーして頂いて、もっと知りたい方は本などで調べて頂きたいと思います。)青空文庫 古事記物語・鈴木三重吉(古事記の現代語訳) |
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これが国譲りから神武東征までの、超おおまかな話です。この話は出雲からヤマトへの権力の委譲を暗示しているように見受けられますが、1980年代中頃まで出雲に大きな国、権力が存在したと思われてはいませんでした。
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プロローグ2 古代出雲のクローズアップ | ||
1984年から85年にかけて荒神谷遺跡から銅剣358本が発見されました。358本というのは、それまで日本全国各地で発見された総本数よりも多い驚異的な数で、考古学界に衝撃を与えるには十分なものでした。加茂岩倉遺跡からも多数の銅鐸が出土、全国各地の共通の鋳型で作られた兄弟銅鐸が見つかり、出雲と各地の間で盛んな交流があったことが分かってきました。 2000年には出雲大社から旧神殿の遺構が出土し、現在の4倍もの大きさがあったことが明らかになってきました。(現在の神殿ですら日本一大きいのですが)。古代出雲には他に類を見ない巨大な神殿があったと考えられています。 |
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プロローグ3 纒向遺跡の発見・・・ヤマト王権の誕生の様子が明らかに | ||
卑弥呼の墓と云われる箸墓古墳と奈良盆地をホケノ山古墳頂上から眺める。 1971年、それまで小規模な遺跡としか認識されていなかった巻向で、総延長200メートルに及ぶ運河状の遺構が発掘され話題となりました(運河は巻向小学校の校庭だった)。以降調査を重ねる度に様々な遺構が発掘され、 纒向が弥生時代の巨大な都市遺跡であることが判ってきました。
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館に展示してあったイラストと土器。 纒向遺跡の特異な点は、発掘された土器青銅器が、出雲、吉備、北陸、東海、瀬戸、南関東、後期に は北九州と、全国各地から集まってきていることにあります。このことは、纒向が各地の豪族が結集して出来た連合国家の都市であることを示していると言われています。
桜井市埋蔵文化財センターに展示されている鉄器。 近年では纒向都市の成立をもってヤマト王権の始まりと捉える考え方が主流になってきているようです。ヤマト王権(ヤマト政権とも言う)は、大和朝廷の前身となる国家を表す言葉です。律令制以前をヤマト王権、以降を大和朝廷と呼ぶのが現在の主流のようです。 また年代が卑弥呼の時代と一致することから、近年ではこのヤマト王権こそが邪馬台国とみる意見が有力となってきています。
卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳。宮内庁管理なので面白みは少ない。R169沿いで国道を走っていると見える。 ヤマト王権こそ、日本という国家の最初の形と言っていいと思います。当初出雲や吉備、北陸、東海等の連合国家として成立したヤマト王権は、後期に九州の勢力を取り込み、政治制度を整え、大和朝廷へと発達していきます。
全長240mと巨大な崇神天皇陵。ヤマト王権の初代大王とも、神武天皇と同一人物とも言われる。 宮内庁管理の古墳は中には入れないので、実は訪れてもあまり面白くはない。
近くの天理市管理の黒塚古墳の方が、古墳に登れるし、隣接の博物館に発掘物が展示されていて面白い。 ・・・・・ とまあ、こんな感じで日本という国家の形成過程が、近年では大分解明されてきているように思います。この部分というのは、日本人としてやっぱり知っておくべきではないか!と考えたのが、今回の旅のきっかけな訳ですよ。それに名所を訪ねるとき、色々な曰くとか、神話や歴史上の位置づけとかを知っていると、一層楽しめると思いますしね。 では神話と史実の接点を求めて、出雲の地に向かいましょう。 |
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PART1に続く | ||
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